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<title>歴史.tv | 歴史巡礼 | 乾アイ | 高知の戦国武将　長宗我部氏</title>
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<pubDate>2009-06-05T22:50:45+09:00</pubDate>
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<title>【連載4】日本を変えた長宗我部家臣団～一領具足の末裔～</title>
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<pubDate>2009-10-09T19:21:15+09:00</pubDate>
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2010年の大河は長宗我部が地元、高知の英雄坂本龍馬と岩崎弥太郎を主人公とする龍馬伝です。 この坂本龍馬と岩崎弥太郎ですが、彼らは郷士という下級武士の身分で、郷士というのは主に「一領具足（いちりょうぐそく）」と名乗る半農半武士集団の末裔です。
さて、この郷士、「一領具足」とは一体何者なのでしょうか？ その原点は実は長宗我部にあるのです。 今回はその、一領具足とその末裔のお話です。
戦国期に長宗我部氏は「一領具足」という半農半武士の戦闘集団を作ります。 彼らは平時には畑を耕し、いざ城から戦の号令が出ると畑の横に立てかけておいた一領(ひとそろい)の具足を身につけ参戦し、当時長宗我部当主であった元親の許、大いに奮戦し先攻を上げ、四国平定の大きな力となりました。 彼らは他方の戦に借り出される農民と違い、戦で功を立てるほど恩賞を貰い、中には家老に抜擢される者もいたほどです。
1599年に元親が他界し家督を継いだ盛親が関ヶ原で敗走すると長宗我部は領地を没収され、山内一豊が土佐の国主として入国します。 しかし、一豊の政策ではこの一領具足はただの農民となってしまい、給料が大幅にカットされてしまいます。 長宗我部恩顧の家臣団でさえどうなるかわかりません。
それに反対した一領具足と長宗我部家臣達が浦戸城に籠り山内入国を阻止しますが内応者が現れ分裂し、追い討ちをかけて山内が相撲大会を開くという罠を張ります。 山内に力をみせつけんと参加した一領具足と、その大会を見に来たギャラリーを一斉に撃ち殺し、大量の死者を出しました。 この中には女子供もいたといいます。
それ以降小さな小競り合いはあったものの、山内恩顧の武士と、山内に味方した長宗我部家臣を上士とし、それ以外の一領具足をはじめとする武士を郷士とし、徹底的な身分制度が敷かれました。
例を挙げれば、城下町でも高知城付近は上士しか入れない地域で、郷士は特別な日以外は立ち入りることすら禁止し、上士は高下駄や絹の着物の着用や雨の日に傘をさす事を許されますが、郷士には許されていません。
では、具体的に長宗我部家臣団や一領具足の末裔で、幕末に活躍した人物の名前を挙げていこうと思います。

まずは大河ドラマの主人公、岩崎弥太郎。 戦国期、彼の先祖は安芸国虎という当時安芸を治めていた豪族に仕えていましたが、元親が安芸に攻め入り安芸国虎が自害すると長宗我部氏に仕え、江戸期に郷士となります。
坂本龍馬の坂本家は明智光秀に関係する家で、本能寺の変の動乱で明智と関わりが深かった元親夫人を頼り土佐へ逃げ延び長宗我部に仕え郷士となった。 と言う話もありますが、坂本家は郷士の身分をお金で買った家柄で明智関係の話も龍馬の創作ではないかと言われており、想像の域を脱しません。
また、龍馬を深く敬愛していた谷干城は、岡豊城の鬼門に位置する岡豊八幡の宮司をしていた谷家と、元親の重臣福留隼人の末裔でもあります。

土佐藩士ではありますが、吉田東洋は長宗我部国親、元親二代に仕え、一領具足を考案した吉田孝頼の弟の家系に当たります。
最後に、土佐勤王党から脱藩し天誅組に入隊した島浪間は、別名長宗我部四郎義親と名乗り長宗我部家の末裔だとされていて、元親の菩提寺、雪蹊寺の近くに眠っています。
このように、滅亡した長宗我部の忘れ形見がその精神を受け継ぎ、鬱屈とした精神が幕末の風と混ざり合い約270年後に大きな原動力となり日本を開国へと導くのでした。
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(著・イラスト、写真提供：乾アイ)



 
乾アイ
東京都出身。中学の頃より世界の芸術、建築、文化が好きで、学生 時代は美術とデザインを専門に学び、日本を始め、世界の歴史に興 味を持つ。気づけば戦国時代へ傾倒。 現在は、アニメーション、ゲーム、広告、アパレル、WEB&hellip;と、 畑を選ばず活動中。 歴史の授業は、ノートや教科書に、歴史上の人物や出来事の落書き をして、周りを笑わせる事が好きでした。 長宗我部氏に出会ったきっかけは、長宗我部氏の名前が読めなかったので、司馬遼太郎先生の夏草の賦を読み始めてから。 http://ainui.com/  




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<title>【連載 3】こじゃんとごっつい岡豊山（おこうやま）</title>
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<pubDate>2009-06-05T18:56:20+09:00</pubDate>
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さて、第一回目で、元親を紹介いたしましたが、 第二回目の今回は長宗我部一族始まりの地、岡豊城と、城に縁が有る場所を地図でご紹介します。
長宗我部氏が領地としていた現在の高知県南国市一帯は、 なだらかに海へと繋がる高知最大の穀倉地帯である香長平野が広がり、 その平野の終わりにある岡豊山が、長宗我部氏の居城、岡豊城。 岡豊城二の段からは、香長平野が一面に見渡せます。 高知は山岳地帯が多く、稲作に適する土地が少ないので、 「土佐のまほろば」と言われ、時代は古く、弥生時代の出土品もあり、 平安時代には紀貫之が48代目の国司として訪れ、土佐日記を残している歴史ある地域です。
この、まほろばで成長し、毎日平野を見つめ、 元親は四国を大きく飛び越え、天下を夢見たのでしょう。
長宗我部氏の居城・岡豊城は平成20年、中世の城郭を色濃く残しているものとし、 国指定史跡になりました。 起源は定かではありませんが、平安時代後期～鎌倉時代初期に長宗我部氏の祖、秦能俊が土佐へ移住 した頃からあったのではないかと言われており、 元親が大高坂城に移転する1588年頃まで存在したのではないかと考えられている、長宗我部氏始まりの地です。

1：岡豊城：
東は城下町、西は湿田、南は国分川と、天然の要害となっている上に、 岡豊山には土塁や掘り切が至る所に張り巡らされ、 四方から敵を狙える虎口と、中世の城の中でも高い防御力を誇る城郭です。 これを一度は落とした長宗我部氏の長年のライバル、 本山氏の手腕もなかなかのものではないかと思います。 二の段から見る景色は最高。晴れていれば海と夕日が見えるベストスポットです。


2：伝・厩跡：
馬をつなぎ止めておく場所だったそうです。


3：船着き場：
近年、国分川の堤防整備の時に発見されたものです。浦戸から岡豊城まで物資が輸送されます。 このもう少し北の国分寺辺りからも船着き場が発見されたようです。 戦国時代の国分川は、流れがもっと速く急で、よく氾濫するため暴れ川と呼ばれていたようです。 近年の工事でここまで穏やかになったとか。


4：岡豊城への道：
船着場の向かいの階段は、岡豊城に物資を運ぶ時に使用した遺構を整備したもの。 階段を上る途中、右手に当時の土塁を見ることが出来ます。 階段を上ると、踊り場に柱跡を発見することが出来ます。 ここに櫓を組み、物資を一時まとめていた場所、もしくは、運び人が休職した場所ではないかと言われています。  


5：岡豊城下町：
岡豊小学校付近の曲がりくねった小道に、家が密集しています。 これは岡豊城下の町並みが今でもそのまま残っているもので、 現在でも敵の侵入を容易に許さないことを物語っています。 岡豊城は山城なので、長宗我部一族はこの城下のどこかに住んでいて、 合戦時に城に上がったといわれています。


6：香川五郎次郎親和、秦氏墓：
とても見落としやすい場所に有ります。歴史民俗資料館に行くための坂を上る途中、右手に 「香川五郎次郎親和」と書いた立て札を見つける事が出来ます。 その横にある小さい階段をひたすら降りましょう。 長宗我部一族の墓より離れた場所に、ぽつんと一つだけ建てられています。 横に「秦氏墓」と書かれた祠があります。 


7：長宗我部氏墓所：
こちらも解り辛いですが、国道384号線を高知市内に向けて少し走らせ、倉庫の横の細道を潜りますが、 草刈りをしていないと、どれが道なのか何なのか解り辛いです。 一応行き止まりの足許に「秦氏&rarr;」と、掘られた石があります。 20代国親まで、歴代の長宗我部当主が眠る場所です。一番奥の、一番大きいお墓が、 国親、又は信親の墓だと言われています。 一応五輪塔の様式ではあるのですが、上から三番目の火輪の部分が無くなっています。 地元の方のお話によると、当時加工された石は貴重なため、もしかしたら誰かが何かの用途のために 持ち去ったのではないかと仰っていました。  


8：岡豊別宮八幡宮：
岡豊城の鬼門を守っていた神社です。元親縁のエピソードも多数存在します。 長宗我部氏ゆかりの宝物が沢山ありましたが、大正年間大火にあい焼失してしまいました。 国道384号線をはさみ、岡豊山の向かいに入り口がありますが、 もの凄い急な階段を上るため、384号線を少し北へ、クロネコヤマトの集積所がある山道を登ると、 境内の裏に到着します。私は車を使い後者のルートで境内の裏に出たので何ら苦労はしません でしたが、 毎度これを登った昔の人の健脚は素晴らしいと思いました。境内から階段の一番下が見下ろせません&hellip;。  


9：豊岡神天神社：
岡豊城の裏鬼門を守っていたのではないかといわれる神社です。畑の真ん中にぽつんとあります。 「豊岡」とは、岡豊の昔の呼び名。戦国期に「岡豊」と改名されたらしいです。 由緒は不明ですが、地元の方の話によると、岡豊城が建つ前、平安時代辺りから、 岡豊山山頂にあったのですが、長宗我部氏が城を建てる時にこちらに移したのだとか。 宮司さんはいなく、地元の方々で守っているのだそうです。


10：わだばし：
写真スポット。最近架けられた橋だそうですが、岡豊山側には、長宗我部氏の家紋、七つ片喰のレリー フ、向かいの常通寺島側には、元親の弟、香宗我部親泰の現存する兜を模したレリーフがあります。







(著・イラスト、写真提供：乾アイ)



 
乾アイ
東京都出身。中学の頃より世界の芸術、建築、文化が好きで、学生 時代は美術とデザインを専門に学び、日本を始め、世界の歴史に興 味を持つ。気づけば戦国時代へ傾倒。 現在は、アニメーション、ゲーム、広告、アパレル、WEB&hellip;と、 畑を選ばず活動中。 歴史の授業は、ノートや教科書に、歴史上の人物や出来事の落書き をして、周りを笑わせる事が好きでした。 長宗我部氏に出会ったきっかけは、長宗我部氏の名前が読めなかったので、司馬遼太郎先生の夏草の賦を読み始めてから。 http://ainui.com/  




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<title>【連載 2】長宗我部の祖・秦能俊</title>
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<pubDate>2009-06-05T18:00:43+09:00</pubDate>
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源平合戦から300余年、時は戦国。源氏と平氏の末裔を名乗る武将や豪族が台頭する時代、長宗我部氏は秦氏を名乗っていました。
第二回目の今回は、長宗我部の祖にスポットを当てたいと思います。
土佐の軍記物語、「土佐物語」によると、秦の始皇帝を祖とする秦氏の血筋、秦河勝より数えて25代目の秦能俊が、平安末期～鎌倉時代初期にかけて土佐に入国し、長岡郡宗我部郷（現・南国市岡豊町近辺）に居を構えたことから、初めは「宗我部」を名乗っていましたが、近隣の香美郡宗我部郷にも同じく「宗我部」を名乗る豪族がいたので、お互い地名の一番初めの一字を取って、長岡郡の宗我部は「長宗我部」、香美郡の宗我部は「香宗我部」と名乗り、ここに「長宗我部」姓が誕生したのでした。

さて、この、長宗我部初代とされる秦能俊ですが、彼の氏族の起源を辿ると、日本古代にまで到達します。

秦氏の出自については諸説ありますが、いづれにしても大陸からの渡来人です。秦氏は、現在の京都・太秦一円を治め、大和時代には秦氏の頭領、秦河勝が、聖徳太子のブレーンとして活躍します。その功績を認められ、現在では国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跏思惟像を太子より賜り、太秦に広隆寺を建立しました。後に信濃の領地を太子より賜り、秦能俊の代の平安末期まで治めます。能俊は、保元の乱（1156年）に崇徳上皇方に属し破れ、土佐へ走ったとされる説もありますが、承久の乱（1221年）に幕府方で参戦し、その功績から土佐の長岡郡宗部郷を賜ったとされる記述もあります。
また、上記で記した香宗我部の祖、中原秋家は、源頼朝の力により1193年に土佐入りし、1223年には香美郡宗我部郷を治めていたらしく、上記の「宗我部」姓のエピソードからすると、どうやら香宗我部が先に土佐入りをしたらしいので、能俊が土佐入りしたのは、保元の乱（1156年）～1223年の間となり、平安後期～鎌倉初期となります。
しかし、この年代からすると、長宗我部氏と香宗我部氏が土佐入りしたのはタッチの差・・・。だったのかもしれませんね。
実は、長宗我部の祖にはもう一つの説があります。それは蘇我氏説です。蘇我氏も大陸よりの渡来人、又は、渡来人と関係の深い氏族とされています。大化の改新で有名な、蘇我入鹿などの家ですね。蘇我氏ではないかと言われている説ですが、一般的には「ちょうそかべ」と発しますが、土佐では現在でも「ちょうそがべ」と発し、「ちょうそがべ」の「　そ　が　」が、「蘇我」であるとされる説です。しかし、姓の一部が蘇我と被るだけでは、説得に苦しい部分がありますが、それ以上の記述は出てきませんでした。
以上、秦氏説、蘇我氏説を取ったとしても、長宗我部氏の起源は、大陸からの渡来人、または、大いに大陸と関係が深い氏族ということが分かり、古事記から辿ってきた日本人の起源をなぞる、源氏と平氏とは別格であったことが分かります。

====以下は、長宗我部氏の祖を語る上で出てきた氏族の説明です。====
※秦氏9世紀に編纂された歴史書、「日本三代実録」より登場します。そこに、秦の始皇帝より数えて5代目の弓月君（融通王と記載してありますが同一人物です）が秦氏の祖であると記述されています。弓月君は、それよりも古い日本最古の正史「日本書紀」から登場し、百済より沢山の人を引き連れて渡来、帰化したとありますが、秦の始皇帝の末裔という記述はありません。おそらく、「古事記」に、「応神天皇の時代に秦造の祖が来た」とだけ記述してあるため、それが、「日本書紀」でいう弓月君であるということになったのだろうと思います。その後、彼らは京都太秦を治め、養蚕、酒造、土木などの技術を日本に伝えたといいます。※蘇我氏応神天皇の時代に渡来した百済の高官、または、渡来系の氏族と深く関係し、政治を大いに助けた氏族。しかし、日本最古の歴史書、「古事記」に登場する武内宿禰が祖であるともされています。※応神天皇仁徳御陵でおなじみの仁徳天皇の親です。在位は270年～310年と長いですが、これは、日本書紀は古い時代は年代を引き伸ばして記載されることにより起こったことで、実際の応神天皇の時代は紀元・390年位から始まったのではないかとされています。いづれにしても応神天皇の時代より少し前から百済と国交があったことは確かなようで、その時期に大陸から沢山の人が渡ってきてもおかしくはありません。応神天皇は、長宗我部と渡来人を辿る上でのキーマンのようです。




(著・イラスト、写真提供：乾アイ)



 
乾アイ
東京都出身。中学の頃より世界の芸術、建築、文化が好きで、学生 時代は美術とデザインを専門に学び、日本を始め、世界の歴史に興 味を持つ。気づけば戦国時代へ傾倒。 現在は、アニメーション、ゲーム、広告、アパレル、WEB&hellip;と、 畑を選ばず活動中。 歴史の授業は、ノートや教科書に、歴史上の人物や出来事の落書き をして、周りを笑わせる事が好きでした。 長宗我部氏に出会ったきっかけは、長宗我部氏の名前が読めなかったので、司馬遼太郎先生の夏草の賦を読み始めてから。 http://ainui.com/  




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<title>【連載 1】いごっそう・元親</title>
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<pubDate>2009-01-30T12:04:48+09:00</pubDate>
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 長宗我部元親という人物をご存知でしょうか？ 歴史FANの間でもマイナー視され、地元高知でも坂本龍馬に押されて知名度は今一歩。 しかし昨今、戦国をモチーフにしたゲームや漫画で戦国武将の存在を知り、歴史小説を読み解くうちに 武将に魅かれていく若者が増えているといいます。 長宗我部元親はその現象で、戦国の表舞台に再び躍り出た人物の代表といっても過言ではない一人です。  第一回目の今回は、この長宗我部氏の代表、長宗我部元親をクローズアップして行きたいと思います。
元親は幼少時、色白で部屋に引きこもっていて、客や家臣が来ても挨拶一つしない変人だった。 という記述が残っています。  高知は昔から、開放的で豪快な気質の人が多いといいます。吉田茂、坂本龍馬などが、 高知を代表する人間性だとすれば、その中で幼少の元親の奇行は一層際立ったことでしょう。  土佐では、豪快な気質の男性を「いごっそう」（漢字では「異骨相」又は「威豪相」と書くそうです）、 と呼びますが、上記の紹介だと、元親は土佐者としてはいかがなものかと思われます。  では、元親は「いごっそう」ではないのでしょうか？  本来いごっそうとは、『己の魂に忠実である』という意味だそうです。 それが時代が流れるに連れて、「頑固だが憎めない人」「豪快」「偏屈者」 などと解釈が変わってきたのだそうです。 
こんな話があります。  元親が雲辺寺を訪れた時、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ります。 住職は、「薬缶の蓋では水瓶の蓋は出来ません」と、 はっきりと、四国統一は無理。と答えられました。  しかし元親は 「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。たとえ小さくとも四国に蓋をしてみせる」 と答えます。  秀吉が天下を平定し、聚楽第で宴会を開いた時、秀吉が元親に、 「今から四国の覇者を望むか。それとも天下に心をかけるか」 と問います。元親は 「天下に候」 と答えます。しかし秀吉は 「貴殿の器量で天下への望みは叶うまい」 といいますが、 「私は悪しき時代に生まれ、天下の主になり損じた」 と返し、秀吉はじめ、その席にいた一同を驚かせたといいます。 この時期の秀吉にここまで言える人物は、そうはいません。
最後に、朝鮮の役の際、小西行長が突出しすぎるので戻るように連判状を作ろうと 画策した時に、反対した元親は、仮病を使って出てきませんでした。 その連判状に腹を立てた秀吉は、参加しなかった元親には大いに喜んだとか。  そのお陰で、軍監、垣見和泉守とはますます不仲になり、ある日、城に設置する 鉄砲狭間の作り方について、城の内部が見えてしまってはおしまいなので、和泉守は高く、 そんなに高く作っては射撃に向かないので、元親は低く作れと激しくぶつかります。 そこで元親は、杖で鉄砲を撃つ構えをして、 「元親は生涯戦場で過ごしてきました。実践の事はお任せあれ」 と、言うと、和泉守は一言も言えなかったのだそうです。  普段、目上の者に対しては慇懃に取りはからうのに対し、 元親はそのような事は全くなく、 魂までは誰にも屈する事なく、最後まで「己の魂に忠実」だった、 元祖「いごっそう」だったのではないでしょうか。



 



(著・イラスト、写真提供：乾アイ)



 
乾アイ
東京都出身。中学の頃より世界の芸術、建築、文化が好きで、学生 時代は美術とデザインを専門に学び、日本を始め、世界の歴史に興 味を持つ。気づけば戦国時代へ傾倒。 現在は、アニメーション、ゲーム、広告、アパレル、WEB&hellip;と、 畑を選ばず活動中。 歴史の授業は、ノートや教科書に、歴史上の人物や出来事の落書き をして、周りを笑わせる事が好きでした。 長宗我部氏に出会ったきっかけは、長宗我部氏の名前が読めなかったので、司馬遼太郎先生の夏草の賦を読み始めてから。 http://ainui.com/  




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