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真田 日ノ本一の兵 (つわもの)

【連載 3】真田の幹―【真田幸隆】その弐―

真田幸村が大阪の陣で、『日本一の兵』と称えられた戦いは、決して楽なものではありませんでした。
そして、その父・昌幸が徳川軍を迎え打った2度の上田の合戦も、父や弟と袂を分かった信幸が
幕府の睨みの中で真田家を維持させたのも・・・並々ならぬ逆境の中でした。
いや、むしろ『完全なる負け』の中からの、不死鳥のような復活―もはやそれは真田のお家芸といっても
いいくらいの、強運と智謀のなせる技。

その始まりは…始祖・幸隆が28歳の春。
真田のDNAが、新緑と共に芽吹くのでした。

その頃、甲斐を支配していたのは、のちの名将・武田信玄の父・信虎でした。
1541年、5月。
信濃への侵略の手を進める信虎は、諏訪氏や村上氏と手を結んで佐久方面へ兵を進めました。
その一帯を治めていて、これと強固に戦った滋野一族の中に…幸隆もいたのでした。
海野・禰津・望月の滋野諸侯は、次々と城を落とされ…その故郷・海野平を包囲されます。
俗に言う、海野平の戦いです。

三氏の必死の攻防も空しく海野平は武田連合軍に占拠され、禰津・望月は降伏してしまいます。
海野を率いる棟綱は長男・幸義を戦いで失い、支族である羽尾家を頼って上州へ落ち延びます。
その落ちゆく敗軍の中に…まだ4歳の長男・信綱を抱えた幸隆の姿があるのでした。
改名の時期は定かではありませんが…当時の名乗りは『幸綱』。
一族が、住み慣れた誇り高い故郷を追われたこの時の気持ちは…幸隆の生涯を大きく変えていきます。

上州は箕輪城主・長野業正を頼ることとなった幸隆一家は、後閑の『長源寺』という寺の厄介に
なっていたと言われます。その際に親しくなった晃運字伝和尚は…後の信濃長国寺の開山となる人。
後に信幸が松代に移封になった際にさえ真田家についてその根を移したこの寺は、
幸隆を助け、幸隆もまたそれに報いた、真田のもうひとつのDNAである 『義』 の
始まりなような気がしてなりません。

そう、真田の一族は義に厚い。
それは、この後の幸隆や、昌幸・信幸・幸村たちをみていても必ず感じる事柄。
厚き恩には、必ず報いる。
…しかし…根本のDNAである、『誇りへの不惜身命』が、それに勝ってしまう為に、なかなかそれが
表立って人の口端に上ることが稀なのだけれども…。
そう、私もここではそれを後回しにして、幸隆の血のにじむような起死回生の『策』に筆を向けたいと思います。
幸隆が選んだその道とは… 『敵に下る』。 つまり、自らの一族を滅亡せしめた武田家の軍門に下り、
武田のいち家臣として仕え、旧領を自らの手に再び掴むことでした。

しかし、誇り高い滋野―その中でも名門の海野の棟梁である棟綱がそれを許す訳がありません。
はからずも幸隆が身を寄せる長野業正は、―上州をも我が手に―と睨む武田家の敵。
それに、一説では幸隆の妻の実家といわれる羽尾氏も、そんな事を良しと言うわけがありません。
武田はいつか上州をも狙ってくる―その思いが上州の人々には色濃い敵対心として根付いていたのですから。

一説には、父とも祖父とも伝えられる棟綱を殺めてまで、武田の軍門に下る事を決意したと言われる幸隆。
大恩ある長尾に後ろ足で砂をかける様な体で。親族である羽尾を裏切るような形で。
時に、幸隆33歳。

ここに真田の歴史が動き始め、あの『不惜身命』の六連銭に刻まれる魂が生まれるのでした。

そう、あの奇妙で有名すぎる家紋。『六文銭』の名で親しまれる、真田の代名詞ともいえるあの紋章が、
真田のDNAと共に魂に刻み付けられたのは、まさにこの時からでした。

次号では、この六連銭に刻まれた幸隆の辛酸と栄光をご紹介したいと思います。


(著:六龍堂)

六龍堂
六龍堂

東京都目黒区出身。
古の武将の志や文化を現代に発信する、女流戦国プロデューサー。

『歴史時代書房 時代屋』を企画・立ち上げを担当。『初代女将』として オープン当時から2006年8月までの期間、神田小川町店の店長を務める。
時代屋退職後は、その人脈を活かし『六龍堂』の屋号で戦国時代をモチーフとした イベント企画・商品企画を行なう『軍師』として活動。
2008年、深く傾倒する真田幸村への想いを酌まれ、長野県上田市長より 『信州上田観光大使』を任命される。
戦国を通じて地域活性化や町おこしを提案する『軍師』としても活動中。

http://rokuryudo.com


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